大根島雲州人蔘の歴史

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HISTORY

高麗人蔘と松平治郷(不昧)
松江藩6代藩主 松平宗衍(まつだいらむねのぶ)が高麗人蔘の栽培実験を開始します。
息子の7代藩主 松平治郷(はるさと)の代で頓挫した高麗人蔘栽培を復活させ試行錯誤を経て1807年(文化3)松江 古志原で栽培に成功しました。
小村新蔵・茂重親子の功績
小村新蔵は松江藩主 宗衍、治郷より命じられ高麗人蔘の試作に取り組みました。
息子の小村茂重が栽培を受け継ぎ、日光より得た栽培技術に独自の工夫を加え、松江市古志原地区で栽培を成功させます。
雲州人蔘の誕生
文化13年(1816)に幕府が海外へ諸藩からの高麗人蔘の輸出を認めます。
海外では雲州で栽培された高麗人蔘は「雲州人蔘」「雲州製」と呼ばれ、品質の確かさから世界のトップブランドとして知られる存在になりました。
大根島の雲州人蔘栽培
松江藩の領内全体で栽培をされた雲州人蔘ですが、時勢に翻弄され次々と栽培地が減少します。
湖に囲まれた特殊な環境であった大根島でのみ栽培が受け継がれました。
現在、日本で3カ所しか残されていない貴重な農業遺産になっています。
人蔘方役所の復元
松江の古志原から1813年(文化10)に寺町に人蔘方役所が移設されてから200年の節目の年、2013年(平成25)に大根島、由志園に人蔘方役所の長屋門を復元しました。
人蔘方役所は江戸期に松江藩が設置した高麗人蔘の製造、加工、流通、販売をになう公の施設です。
江戸時代より続けられている大根島の人蔘栽培の技術を伝承し、保存する平成の「人蔘方役所」として加工、販売、流通を担います。
2018年に「人蔘茶カフェ」がオープン

人蔘茶カフェ

復元された人蔘方役所の施設内にオープン。
身近なものとして高麗人蔘の魅力を知ってもらうために様々なメニューをご提供します。

高麗人蔘の販売サイトはこちら

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高麗人蔘の歴史

日本庭園【 由志園 】

高麗人蔘の歴史

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最古の人蔘の記録

高麗人蔘は沿海州(中国、ロシアの国境付近)から朝鮮半島に自生する薬草植物です。
古く中国の後漢から三国時代に書かれた中国三大古典医学書の一つ「神農本草経」(「しんのうほんぞうきょう」)には人蔘七効説(七つの優れた効能がある)として極めて効能が高い薬草として登場します。
日本へは739年に海外からの使節団(渤海使(ぼっかいし))が聖武天皇への献上品として持ち込みました。
奈良時代の正倉院宝物の記録の中にも高麗人蔘らしき記述が残されています。
アジアを中心に高麗人蔘は古くから珍重されました。

世界的な大ブームと価格高騰

1596年に中国で出版され日本にもたらされた「本草網目」(「ほんぞうこうもく」)は効能や調合が詳しく書かれており漢方、和方の処方に高麗人蔘は大量にもちいられます。
朝鮮半島の自生地の高麗人蔘は乱獲され供給不足と価格高騰がおこりました。

高麗人蔘と戦国大名

豊臣秀吉による朝鮮出兵は高麗人蔘が目的の一つであったとされ、薬問屋出身の小西行長など薬草に詳しい大名が先陣に送られたのはこのためではないかと言われています。
また、秀吉の軍師 黒田官兵衛は隠居後に高麗人蔘の栽培研究をおこないました。
結果として栽培は失敗に終わりましたが、当時の高麗人蔘への渇望がうかがえます。
徳川家康が朝鮮王朝との早期の講和に乗り出したのは、一説よると高麗人蔘の輸入再開が目的でした。

高麗人蔘と海外貿易

16世紀中頃、自然界に存在する高麗人蔘は乱獲され朝鮮半島や沿海州のほとんどで取り尽くされます。
朝鮮半島では高麗人蔘の実を山野に蒔く栽培(自生栽培)が試みられますが安定した収穫にはいたりませんでした。
日本(江戸幕府)と朝鮮王朝との高麗人蔘貿易は対馬藩が専属でおこないます。
徳川5代綱吉の時代ころ度重なる財政危機により鋳造される銀貨の質が悪化(1695年の元禄丁銀、1706年の宝永丁銀などの造幣)し、これにより朝鮮王朝は2度にわたって日本への高麗人蔘貿易を中止させました。

人蔘貿易の専用銀貨

京都の銀座(現在の造幣局)では1710年9月(宝永7)から人蔘代往古銀(にんじんだいおうこぎん)という高麗人蔘の貿易のためだけに銀貨を新たに鋳造します。
往古(おうこ)とは昔にもどす(この場合、昔の丁銀の品質)という意味です。
当時の銀座の記録「銀座書留」によれば1710年(宝永7)より1年当り1,417貫500匁(5 315.625kg)の人蔘代往古銀を対馬藩に渡すように記載されています。
高麗人蔘貿易によって日本から流出する大量の銀は江戸幕府の深刻な問題でした。
また、朝鮮からの不安定な高麗人蔘の供給と価格高騰にも悩まされ続けます。

世界初!徳川吉宗が高麗人蔘の人工栽培に成功

江戸幕府7代将軍 徳川吉宗は高麗人蔘の貿易による貿易赤字を減らし、高麗人蔘の安定供給と価格高騰を抑えるために人工的な栽培を試みます。高麗人蔘の人工的な栽培は非常に難しいもので、それまで徳川家康や徳川光圀(水戸藩3代藩主 通称 水戸黄門)などが栽培を試みていましたがいずれも失敗していました。
吉宗は対馬から送られた高麗人蔘の種の栽培実験を行い、数々の失敗を経て1728年(享保13)に日光で栽培の試作に成功します。これが人工的に栽培された高麗人蔘の第一号とされています。

吉宗、人蔘栽培を奨励

吉宗は日光で収穫された高麗人蔘の種を一般発売し、官民を問わない高麗人蔘の栽培を推奨しました。
高麗人蔘がオタネニンジン(御種人蔘)と呼ばれるのはこの時、吉宗が人蔘の種を一般に下げ渡したことに由来します。
吉宗のオタネニンジンの栽培推奨によって全国で高麗人蔘の栽培が試みられますが、継続事業として成果を上げられたのは会津、信州、松江の3藩に限られます。

雲州人蔘の歴史

日本庭園【 由志園 】

雲州人蔘の歴史

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松平治郷(不昧)と高麗人蔘

松江藩6代藩主 松平宗衍(まつだいらむねのぶ)は赤字の藩財政を立て直すべく様々な改革に取り組みます。財政赤字が深刻な松江藩にとって高麗人蔘栽培は藩の財政再建の希望を託したものでした。
しかし宗衍の治世では幕府からの公共事業負担や自然災害が重なり藩の財政はより悪化し改革は失敗します。
宗衍の息子の7代藩主 松平治郷(はるさと)は1767年(明和4)父より家督を継ぎ松江藩の改革に着手します。
松平治郷は茶号を不昧(ふまい)とし不昧流茶道の開祖として茶道の世界で有名です。
しかし、学問を奨励し産業振興によって藩の財政再建に取り組んでいたことは一般にはあまり知られていません。
治郷は藩財政の引き締め、産業を興し、学問を奨励します。
特に産業振興は熱心でハゼロウソク、木綿、製鉄などを藩の特産品を作ることに努めます。
高麗人蔘の栽培もそれらの取り組みの一つです。
治郷は父・宗衍の元で人蔘栽培にあたっていた小村新蔵に命じ松江での栽培を試みます。
芳しい成果が上げられぬまま新蔵が没した後、中断をはさんで新蔵の子、茂重に人蔘栽培を命じ、日光からの技術導入などの試行錯誤を経て1807年(文化3)松江 古志原でついに栽培に成功しました。
松江藩の高麗人蔘は長崎から海外に輸出され松江藩の財政は急速に再建されます。
また、高麗人蔘の冨は不昧の行った文化事業の財源的な裏付けとなり松江藩は文化面でも全国屈指のレベルを誇る豊かな藩に生まれ変わります。
松平治郷は1806年(文化3)に隠居し、家督を長男の斉恒に譲りますが、1818年(文政1)に死去するまで松江藩を特に文化面で主導しました。

小村新蔵・茂重の親子の功績

松江藩での高麗人蔘栽培は1760年(宝暦10)に6代藩主・松平宗衍に命じられ江戸藩邸に小村新蔵が種を植えて栽培実験を行った事に始まります。
新蔵は1771年(明和8)に松江に帰国し、高麗人蔘に造詣が深い事から1773年(安永2)より松江の東津田に適地を見つけ栽培を始めます。これが今日まで続いている松江での高麗人蔘栽培の始まりです。
この間に松江藩では6代・宗衍が隠居し1767年(明和4)より7代・治郷が家督をついでいます。
小村新蔵の高麗人蔘栽培は当初は成果をおさめ新蔵はたびたび藩から褒美をもらっていましたが次第に収穫が不作となり、新蔵が1799年(寛政11)に没すると松江での人蔘栽培は一端途絶えました。
1803年(享和3)小村新蔵の息子 茂重は松江藩より父が失敗した人蔘畑の再興を命じられます。しかし収穫は芳しくなく松江藩は人蔘栽培の中止を決定します。
小村茂重は父から受け継いだ人蔘栽培を絶やす事が心苦しく、すでに栽培が成功している日光への研修を藩に申し出許されます。
1804年(文化1)8月12日に許され旅立ち、日光での修行を経て12月19日に帰国します。
当時、日光での人蔘栽培は厳しい管理が行われており茂重は松江藩に縁ある実教院という寺院に滞在し、実教院の手引きによって密かに人蔘栽培の技術を学んだと小村家の家伝書に詳しく書かれています。
茂重は日光とよく似た土質の土地を松江で探し、結果、古志原を選び人蔘畑栽培を成功させました。
これが松江藩の人蔘栽培の基礎となります。

幸神社と猿田彦

小村茂重の日光の人蔘栽培修行のおり、茂重の夢枕にかねてから信仰していた猿田彦が立ち帰国を促したと小村家の家伝書に書かれています。
茂重は帰国すると感謝と人蔘栽培の成功を願い猿田彦の神像を彫ります。
古志原から1813年(文化10)に松江藩の人蔘方役所(松江藩における人蔘栽培の製造、流通、販売を担う役所)が寺町に移され鎮守社として幸神社が建てられた際、この神像はご神体として祭られました。
幸神社の社は現在の松江市寺町に今も残されています。

雲州人蔘の海外輸出

文化13年(1816)に幕府が海外へ諸藩からの高麗人蔘の輸出を認めます。
松江藩の高麗人蔘も長崎から海外に輸出されました。
海外との貿易によって巨万の富が松江藩にもたらされる事になります。
海外では雲州で栽培された高麗人蔘は「雲州人蔘」「雲州製」と呼ばれ、品質の確かさから世界のトップブランドとして知られる存在になりました。

松江藩を潤した高麗人蔘の冨

江戸で一時は「雲州様お取り潰し」とまで噂された松江藩の財政危機でしたが、高麗人蔘の利益によって幕末には裕福な数少ない藩として知られる事になります。
松江藩は高麗人蔘の利益を産業振興、学問奨励、文化振興に幅広く運用し松江藩を豊かにしました。
幕末には溶鉱炉(反射炉・キューポラ)を作り、武器製造を松江藩独自に行い有事に備えます。
また、イギリスから購入した二隻の軍艦(第一、第二八雲丸)を購入します。
特に第一八雲丸は蒸気機関で動く当時の最新鋭艦で幕府方最速の軍艦であった事から14代将軍 徳川家茂の御用船として第一次長州征伐にも参戦しています。

戦後の高麗人蔘栽培

二次世界大戦の戦火によって政府は高麗人蔘の価格と作付けを厳しく管理します。その結果、人蔘栽培は昭和20年には事実上できなくなりました。
終戦後の栽培、販売の自由化によって江戸時代からの生産地を中心に栽培は復活し生産量を増やし、昭和30年代前半に人蔘栽培は戦後のピークを迎えます。
それ以降は安い外国産の人蔘におされ全国的に生産量は減少していきました。

人蔘方役所の復元

松江の古志原から1813年(文化10)に寺町に人蔘方役所が移設されてから200年の節目の年、2013年(平成25)に大根島、由志園に人蔘方役所の長屋門を復元しました。
人蔘方役所は江戸期に松江藩が設置した高麗人蔘の製造、加工、流通、販売をになう公の施設です。
江戸時代より続けられている大根島の人蔘栽培の技術を伝承し、保存する平成の「人蔘方役所」として加工、販売、流通を担います。
また、農業法人の由志園アグリファーム株式会社を整備し、六次産業を行う事業の中心として高麗人蔘の栽培にに取り組んでいます。
戦後、日本の高麗人蔘栽培地は福島、長野、そして出雲の大根島の3カ所になりました。
平成の「人蔘方役所」は200年にわたって松江に受け継がれ育まれてきた歴史と技術を受け継ぎ、次の世代にきちんと伝えていくための施設です。

2018年に「人蔘茶カフェ」がオープン

復元された人蔘方役所の施設内にオープン。
身近なものとして高麗人蔘の魅力を知ってもらうために様々なメニューをご提供します。